豊田章男の家族構成とトヨタ自動車社長になるまでの経歴をわかりやすく解説

トヨタ自動車の歴史の中で、最も若くして社長に就任した豊田章男。

最近では「社長が選ぶ 今年の社長 2021」で、2位のソフトバンク社長の孫正義に、倍以上の差をつけて1位に選ばれました。

豊田章男は既にトヨタの社長として絶大な支持を得ており、自らハンドルを操るレーシングドライバーの「モリゾウ」という顔を持っていることでも有名です。

今回は、豊田章男の家族構成や生い立ちについてまとめました。

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豊田章男の家族構成

  • 父親:豊田章一郎
  • 母親:豊田博子
  • 姉:藤本厚子
  • 豊田章男

祖父はトヨタ自動車創業者の豊田喜一郎です。

豊田章男はトヨタの創業者の三代目にあたります。

豊田章男の父親

豊田章男の父親は、実業家・技術者の豊田章一郎です。

豊田章一郎はトヨタ自動車の初代社長で、俳優の佐藤浩一が主役を務めたドラマ『LEADERS』のモデルにもなりました。

また東和不動産取締役会長や、デンソー取締役なども歴任しています。

 

豊田章一郎は真面目で温和な性格をしており、自己主張が弱い人柄だったそうです。

他人に怒る姿を見られることはなかったそうですが、息子の章男のことはとても厳しく躾けていたと言われています。

豊田章男の母親


豊田章男の母親の博子さんは、三井伊皿子家当主で元三井銀行取締役の、三井高長の三女です。

豊田章一郎と博子さんは、歌舞伎座でのお見合いを経ての結婚だったといいます。

豊田章男の兄弟

豊田章男には2歳年上の姉、厚子さんがいます。

姉の厚子さんは、日本の財務官僚だった藤本進と結婚しており、結婚については父親の豊田章一郎が関わってきます。

 

豊田章一郎の同級生で、当時大蔵事務次官だった長岡実が、豊田章一郎から婿探しの依頼を受けたそうです。

そして長岡実が、秘書課長時代に採用した藤本進を紹介したことが、厚子さんと藤本進の出会いのきっかけと言われています。

現在厚子さんは、アツコプランニングという会社の代表を務めています。

豊田章男の嫁との馴れ初め


豊田章男の嫁は、元三井物産副社長の長田淵守の長女である裕子さんです。

大企業の子孫同士の結婚ということで内情が気になりますが、残念ながら馴れ初めに関する情報は全くでていません。

 

一般的に、財力を持つ者同士の結婚は多いと言われています。

日本を代表する企業の子孫が結婚して、万が一離婚した際に、慰謝料や財産分与などで、会社の財産に大きく影響を与える可能性が考えられるからです。

こうしたことを踏まえると、勢いでの結婚は許されるはずがありません。

お互いを時間をかけてよく知り、多くの親族からの賛成もあっての結婚だと思われるので、豊田章男と裕子さんはお見合いで出会ったのではないかと言われているようです。

 

豊田章男が29、30歳の頃の1985年に結婚しましたが、結婚式は近親者のみ招待されました。

裕子さんは過去に、週刊誌で美人妻として取り上げられていますが、裕子さん自身が公の場に出る機会はこれまでに全くなかったようです。

そのため、裕子さんの姿がわかる写真はほとんどありません。

豊田章男の子供は何人?


豊田章男と裕子さんの間には、子どもが1人いると言われています。

ネットでは「子どもは一男一女」という噂もあるようですが、娘がいると確認できる情報は全くありませんでした。

豊田章男自身が一男一女で姉がいることから、「豊田章男の子どもが一男一女」と誤認識されているとも考えられます。

豊田章男の息子の現在

豊田章男の息子、豊田大輔は1988年4月5日生まれです。

慶應義塾大学卒業後は、アメリカのバブソン大学院で経営学修士(MBA)を取得しています。

 

トヨタ自動車には2016年に入社しました。

2018年にはトヨタ自動車とアイシン精機、デンソーの共同出資で設立された「TRI-AD」の創業メンバーとして参加しています。

2021年1月には「TRI-AD」から分派した「ウーブン・アルファ」の代表取締役を務めています。

 

父親と同じくレーシングドライバーとしての一面を持っており、開発中の車の最終チェックなどを行うマスタードライバーの後継者候補にも指名されています。

元タカラジェンヌと結婚

2021年3月には、元タカラジェンヌで「宝塚のオードリー・ヘップバーン」とも呼ばれていた星蘭ひとみと結婚しています。

出会いは2020年2月頃にミュージカルを観劇した時で、車の話で盛り上がり、交際に至ったそうです。

結婚について豊田大輔は、「礼儀作法や努力を重んじるところなど、価値観が同じ」「お互いに刺激しあいながら成長していける関係」と発言しています。

 

星蘭ひとみも幼稚園から高校まで学習院で育った、生粋のお嬢様です。

2015年に宝塚歌劇団に入団し、2019年頃からは映像作品を中心に活動してきました。

 

テレビドラマにも順調に出演し、女優としての今後が期待されていましたが、2020年11月に芸能界を引退しています。

突然の引退に、当時はファンから心配の声もありました。

しかし、4か月後には結婚が発表されたことで、豊田大輔を支えるために引退を決めたのではないかと考えられています。

 豊田章男の経歴まとめ


豊田章男のもとを辿ると、順風満帆な人生を送っていたわけではないことがわかります。

もともとはトヨタの一族であることを隠そうとしていたほど、自分の生まれにコンプレックスを感じながら育ちました。

豊田章男の幼少期

豊田章男は1956年に名古屋市で生まれました。

父親は多忙だったため、母親から厳しくしつけられて育ったといいます。

小学校は、父親の出身校でもある愛知県教育大学付属名古屋小学校に通っています。

 

幼少期の豊田章男は利かん気が強く、腕白でやんちゃな性格をしていました。

隣の家の庭に勝手に侵入して自転車を乗り回し、親に見つかり自宅の地下室に閉じ込められたというエピソードも。

 

子どもの頃から当たり前のように車が身近にあり、外車も含めて様々な車を目にしてきました。

そんな環境の中で育った豊田章男も車が好きな少年で、多忙な父親がたまに連れて行ってくれるドライブが好きだったと話しています。

タクシードライバーを夢見ていた

仕事柄、父親は様々な車に乗っていました。

しかし豊田章男は、父親の職業についてさほど関心はなかったようです。

毎日いろんな車に乗って帰ってくるな」と思うだけで、どんな仕事をしているかなどはわからなかったのだとか。

 

豊田章男の自宅には専属の運転手がいました。

洗車したばかりの車に泥を塗っていたずらをしたときには、運転手から怒られたこともあったのだそうです。

運転手はやんちゃな豊田章男を叱ることも多かったですが、基本的にはとても可愛がっていました。

運転手の影響を受けてか、この頃の豊田章男の将来の夢はタクシードライバーだったそうです。

豊田章男の中学時代


豊田章男は小学校から引き続き、愛知県教育大学付属名古屋中学校に進学。

御曹司の家に生まれ、環境に恵まれた学生生活を送っていたかと思われていましたが、豊田章男の中では大きな葛藤があったそうです。

「豊田家の息子」のレッテルに悩んだ

中学時代に何か成し遂げても、「どうせ社長の息子だから」「豊田の名前があるからできる」と言われ、虐められることもあったのだとか。

周囲から「豊田家の息子」という目で見られ続けていた豊田章男。

幼いながらに自尊心が傷つけられ、生きづらさを感じてきたといいます。

この頃には、「豊田家の息子ではなく、自分自身を見てほしい」と強く感じていました。

豊田章男の高校時代


中学校卒業後は東京に移り、育ってきた環境から離れ、友人が誰もいない状態で高校生活をスタートさせます。

高校は慶応義塾高等学校に進学しました。

 

慶応義塾高等学校の学生のほとんどは、同校の幼稚園、小学校、中学校から上がってきた生徒ばかりでした。

アウェイな雰囲気の中、必然的に名古屋から上京してきたばかりの豊田章男は孤独を味わいます。

そして「周囲とは違う」=「豊田家の息子」というレッテルを感じざるを得なかったといいます。

豊田章男の大学時代


慶応大学法学部に進学した豊田章男は、在学中にホッケー部に入部します。

家柄など関係ないスポーツの世界で、の実力で勝負し、評価されることに喜びを感じていました。

部内では他の部員と同じようにお茶くみをし、先輩の荷物運びをするなど、普通の大学生として過ごすことができました。

ホッケー選手として邁進

夢中でホッケーに打ち込んできた結果、日本代表に選出されてアジア大会に出場を果たします。

1980年のモスクワオリンピックのホッケー候補選手にもなりましたが、日本がボイコットしたため、出場には至りませんでした。

 

自分の力だけでホッケー選手として活躍してきたことは、豊田章男にとって大きな成功体験となりました。

現在の社長としての実行力や突破力は、大学時代のホッケー部での経験で養われたものだと言われています。

米投資銀行に入社


大学卒業後にアメリカのバブソン大学のビジネススクールに入学。

1982年に経営学修士(MBA)を取得し、アメリカの投資銀行A.G.Becker&Co.で勤務しました。

再び豊田の姓で悩むことに


しかし、当時はすでにトヨタ自動車が世界的に有名な企業として知られていました。

そのため、周囲からはトヨタ創業者の一族として見られるように。

再び学生時代のように、豊田家のレッテルに悩まされることになりました。

 

豊田章男が悩みを抱えていることを知った当時の上司が、「同じ苦労するなら、トヨタのために苦労したらどうなんだ」と話します。

この言葉がきっかけで、自分の豊田という姓を受け入れることを決意できたそうです。

そして1984年に勤めていた会社を退社し、トヨタ自動車に入社します。

トヨタ自動車に入社


もともと豊田章男は、「トヨタに入社してはいけない雰囲気を感じていた」といいます。

実際にそれまで、父親の豊田章一郎からは、「トヨタに入社しろ」と言われたことはありませんでした。

トヨタに転職を決めたことを父親に伝えると、「(章男を)部下に持ちたいと思う人間は、恐らく今のトヨタにはいないだろう」と厳しく言われます。

続けて父親は、「トヨタに入社したいなら特別扱いはしない」「その覚悟があるなら決めればいい」と言い渡しました。

 

そして豊田章男は、他の入社希望者と同じように履歴書を提出します。

通常の手続きを踏んだ上で、1984年4月に社員として正式に入社しました。

厳しく教育された工場勤務時代

入社2年目には、愛知県豊田市にある工業製造科に配属されます。

父親の章一郎に「工場勤務から始めさせてほしい」と頼み込んだ結果でした。

 

工場では、元トヨタ自動車取締役で当時課長の林南八から指導を受けることになります。

始めに林南八は、豊田章男に「目いっぱい怒られたことはあるか?」と聞きました。

ありません」と答える豊田章男に、「それは不幸なことだ。幸せにしてやるから覚悟しておけ!」と言い放ち、遠慮なく叱り飛ばしていたといいます。

 

工場では、林南八以外には豊田章男が豊田一族であることは伏せられていました。

その為、林南八は他の新入社員と同じように豊田章男を厳しく指導しました。

この時代に豊田章男は係長から平社員へ降格を経験するなど、特別扱いを受けることなく勤務していました。

「NUMMI」の副社長

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1998年4月には、GM(ゼネラルモーターズ)との合併で設立した、カリフォルニアにある会社「NUMMI(ニューユナイテットモーターマニュファクチャリング)」に出向しました。

その後はNUMMIの副社長に就任します。

トヨタ自動車第11代社長


現場で経験を積み、2009年6月にトヨタ自動車第11代社長に就任しました。

トヨタ自動車の歴代社長の中では、最も若い52歳での社長就任となりました。

 

社長になった豊田章男は、入社2年目に豊田市で勤務していた際の上司であった林南八を取締役に登用します。

他にも社外に遠ざけられていた元役員を呼び戻す一方、前社長の渡辺捷昭の側近を排除するなど、異例の人事を断行しました。

社長就任時は社内で厳しい目が向けられた


社長就任当初は、社内の誰からも歓迎されない空気だったといいます。

豊田家出身の社長は約14年ぶりで、それまで豊田家以外のトップが続いていました。

そして、ほとんどが62歳前後で社長に就任していた中、豊田章男は52歳で就任ということで、「創業ファミリーが突然舞い戻ってきた」「名ばかり社長」という批判もあったようです。

その為社内では、冷ややかな目を向けられているように感じていました。

 

そして社長に就任した当時、トヨタは危機的状況にありました。

2008年のリーマンショックが影響して、2009年3月期の決算では、トヨタは71年ぶりとなる連結営業赤字に転落しています。

周囲から全く協力的な姿勢を感じなかったという豊田章男は、「この赤字の責任をとらせて、社長を辞めさせようと考えていたのではないか」と振り返っています。

トヨタバッシング、自然災害、円高が襲いかかる

 


また、トヨタの危機はこれだけに留まりませんでした。

2010年には、アメリカでトヨタ車が急加速して家族4人が死亡してしまう事故が起きたことで、大規模リコールを実施することに。

この一連の騒動はトヨタバッシングとも呼ばれ、米国で大々的に報道されました。

他にも東日本大震災やタイ洪水被害による操業一時停止、歴史的円高など、とても困難な経営状況で対応に追われます。

危機的状況から盛り返した

豊田章男は対策として、トヨタF1チームやNUMMI撤退による経営縮小、経営幹部を減らす、原材料費削減するなど経営を見直しました。

2010年のトヨタバッシングでは、自らアメリカのニュース番組に生出演して釈明するなど、信頼回復に向けて全力を尽くしました。

 

また世界各地の消費者需要を分析して、地域に適合した車種を投入し、思い切った経営転換をしたことで、2012年からトヨタ自動車の業績は再び向上します。

2013年には世界販売台数が1000万代を超え、2014年3月期の決算で6年ぶりの最高益更新し、業績を回復させました。

常に変革を意識している


2018年にはラジオ番組『DJ KORIZO HANDLE THE MIC』で、豊田章男自ら視聴者の質問に答えるという活動を試みました。

ラジオでの発信に手応えを感じ、更に多くの人にトヨタの人間の声を伝えるために、2019年にトヨタが情報を発信するためのメディア『トヨタイムズ』を立ち上げます。

また同年の豊田章男が自工会会長を務める東京モーターショーでは、特に車が好きではない家族連れもターゲットにして、前年の来場者77万人から倍近くの130万人を集め、大成功を収めました。

 

現在は静岡県に、未来の技術を試すための実験都市「ウーブン・シティ」を建設中です。

豊田章男はトヨタの社長に就任して12年経った現在も、変革を成し遂げています。

テストドライバーとしての一面

豊田章男は2002年に、スポーツカーの開発に大きく関わった、トヨタのメカニック・テストドライバーだった成瀬弘に出会います。

成瀬弘から「運転のこともわからない人に、車のことを言われたくない」と言われたことがきっかけで弟子入りし、成瀬弘のもとで運転技術や車作りの精神を学んできました。

そして自らも開発に関われるレベルのテストドライバーとなり、現在もトヨタ車の最終的な乗り味をチェックしています。

豊田章男のテストドライバーとしての実力は相当なものと言われています。

レーシングドライバー「モリゾウ」

豊田章男はレーシングドライバーの「モリゾウ」としての活動も精力的に行っています。

もともと「モリゾウ」は、豊田の人間であることを隠してレースに出場する為に名乗りだした名前でした。

 

今では豊田章男にとって「モリゾウ」がもう一人の人格となり、「モリゾウ」としてメディアに登場することも多くなっています。

「モリゾウ」の活動を通して「ファンを作り、もっと良い車を作る」ことを目的にしているそうです。

 

レースに対する真剣な姿勢や、ドライビングテクニックの高さは、「パフォーマンスではなく、本気でレースに向き合っている」と世間から評価されています。

社長でありながらここまでドライビングに精通している存在は、現在の自動車会社の中でもとても珍しいと言われています。

 

アンチトヨタの車好きの中には、「トヨタの車は好きじゃないけど、モリゾウはリスペクトしている」と感じる人も多いのだとか。

また、名刺を渡すと相手がかしこまってしまうという理由から、モリゾウのシールを渡しているというエピソードもあります。

「社長の息子」を自らの力で乗り越えた

豊田章男は自身を「僕はお坊ちゃんではなく、超お坊ちゃんなんです」「生まれは良いけど、育ちが悪い」など、ユニークで自虐的な表現をすることがあります。

この言い回しから、自分の中の「社長の息子」というレッテルはとっくに払拭されていることがわかります。

実際に世間からも、「トヨタ自動車の社長」ではなく「豊田章男」という人物に注目が集まっています。

 

また、社長という立場でありながら、現地現物(現物の実物を見て、実態を確認しながら仕事を進める)を意識して、現場に最も近い社長であることを目標に掲げています。

2021年の東京パラリンピックで、選手村を走行していたトヨタの自動運転バスが起こした事故現場にも、一報を聞いてすぐに駆け付けました。

とにかくすぐに現場に出向くことを心掛けて、徹底的に原因を追究して改善することが重要だと話しています。

そうした姿勢がトヨタ社員のみならず、世間から尊敬され、評価に繋がってきていると考えられます。

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