松坂慶子の生い立ち!韓国籍?父親や母親の職業や関係は?

今回は松坂慶子の生い立ち・国籍・父親と母親との関係について紹介していきます。

松坂慶子は韓国籍?

 

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松坂慶子は1952年、日本の東京都大田区で生まれています。

在日韓国人の父と日本人の母の元生まれた松坂慶子は、韓国籍でした。

松坂慶子の父親は韓国に戻らず、日本での永住を決意した結果なのでしょう。

両親は娘の将来を考え、1964年、松坂慶子が小学生の時、日本籍に変えています。

以降、松坂慶子は普通に日本籍の日本人として、現在も日本で生活をしています。

松坂慶子は人気絶頂期の1990年、ジャズギタリストの高内春彦と結婚。

 

松坂慶子の両親は収入格差含め、この結婚に猛反対。高内春彦をヒモと蔑み激怒。

マスメディアは松坂慶子の格差婚、親子喧嘩に飛びつき、連日の大騒動でした。

松坂慶子夫妻は騒動から逃れるように、一時、アメリカのニューヨークに移住。

親子絶縁状態の最中、松坂慶子の両親は「娘・松坂慶子への『遺言』」を出版。

両親の出生公開により、松坂慶子の父が在日韓国人だと、この時、知れ渡りました。

松坂慶子の父親は?

 

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松坂慶子の父、松坂英明は朝鮮半島より仕事を求め、1938年に日本に渡ってきています。

当時は「日韓併合」時代、朝鮮半島は日本だったので、松坂英明は日本人でした。

1945年、日本が戦争に負けた結果、朝鮮半島と台湾は日本ではなくなりました。

朝鮮半島は米ソ二大国によって、38°線から北を北朝鮮、南を韓国に分断。

松坂英明は、こうして日本敗戦後、米ソの思惑で、日本人から在日韓国人になりました。

松坂英明は朝鮮半島に戻らず、在日韓国人として日本で行商などで生計をたてていたそう。

事業詳細は確認できませんが、松坂英明はその後、日本で事業を起こしたそうです。

松坂慶子は、少女時代に多くの習い事を両親にさせられています。

両親がいかに教育熱心だとしても、時代を考えると、これは経済的余裕がなければ無理。

松坂慶子は私立の日大二高出身ですから、松坂英明には経済力があったと言えます。

そんな松坂慶子の父、英明は2007年12月、娘夫妻とは絶縁状態のまま他界されています。

松坂慶子の母親は?

 

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松坂慶子の母、松坂つね子は幼少時に身売りされた日本人です。

貧しさゆえ娘を身売りするのは、貧富の差の激しかった当時の日本では多かったよう。

そんな日本を変えようと、青年将校達による「二・二六事件」が起きたのが1936年。

松坂英明とつね子が出会う数年前の、日本を震撼させたクーデター未遂の大事件でした。

そんなつね子には、今では考えずらいですが戸籍がなく、そのまま日本は大戦に突入。

日本敗戦後、つね子は実在しない韓国人の戸籍を借り、自分の戸籍を日本で作ります。

戦後のどさくさとは言え、在日韓国人になった松坂英明の、これは尽力でしょう。

その後、松坂英明とつね子は法務省と交渉、1964年につね子の戸籍が回復します。

1964年は東京五輪開催、1965年は日韓国交正常化の「日韓基本条約」が締結した年。

松坂慶子の両親、英明とつね子の人生は、正に「激動の昭和」そのものと言えます。

英明他界後、つね子は絶縁していた松坂慶子夫妻と和解。

現在は松坂慶子夫妻と同居し、高齢のため介護を受けているようです。

松坂慶子の生い立ちは?

1952年生まれの松坂慶子は、早産で未熟児で生まれ、幼児の頃は体が弱かったそうです。

戦後アメリカ文化が大量に入ってきたので、両親は洋画を好んでいたのでしょう。

当時人気のハリウッド女優、イングレット・バーグマンの両親はファンだったようです。

娘の松坂慶子にも、バーグマンのような美しい女性になってもらいたいと願ったそう。

松坂慶子は少女時代は、おとなしくて静かな子だったそうですが、習い事はかけもち。

バレエ、ピアノ等、両親は溺愛する一人娘の松坂慶子に、なんでも習わせたようです。

松坂慶子は、小学2年生の時には「くるみ児童合唱団」にも加入していました。

松坂慶子が女優を目指したきっかけ


松坂慶子は、YouTubeの「Sakura Radio」出演時、女優になるきっかけを述べています。

中学の親友が「劇団ひまわり」に入って、なんとなくつられて入ってみたそうです。

当時の松坂慶子は背が高く、ボ〜ッとしていたので「うどの大木」と呼ばれていたそう。

そんな、もの静かでおとなしい文学少女だったそうな松坂慶子は、ここで激変。

演劇を始めてから、違う自分を引きだせるようになった事が、面白くなったそうです。

松坂慶子は1967年、テレビドラマ「忍者ハットリくん+忍者怪獣ジッポウ」でデビュー。

藤子不二雄の人気漫画「忍者ハットリくん」の、高視聴率番組のこちらは実写版の続編。

松坂慶子は「劇団ひまわり」に入ってすぐ出演していますので、大抜擢だったと言えます。

松坂慶子のデビュー時の作品や人気


テレビ出演は1967年に果たしていた松坂慶子ですが、映画デビューは1970年。

大映「高校生番長 深夜放送」での端役、小島ミコ役でした。

松坂慶子の初主演映画は、19歳の時に出演した1971年の大映「夜の診察室」でした。

経営難に陥っていた大映は、若い女優によるセクシー路線を主力にしていました。

「夜の診察室」も当初、当時の大映の人気女優、渥美マリ主演予定作品でした。

当時、渥美マリは関根恵子(現:高橋恵子)に次ぐ、当時の大映の客が呼べる人気女優。

ところが渥美マリは会社の経営事情で、裸を求める出演作品ばかりであることに反発し、「夜の診察室」を降板。

そして、無名だった松坂慶子に代役が回ってきたわけです。

残念ながら、当時無名だった松坂慶子初主演「夜の診察室」は、興行的に成功はしませんでした。

「夜の診察室」は、松坂慶子が有名になった後、カルト的に発掘された映画です。

 

そんな松坂慶子が一般的に注目されたのは、映画ではなくテレビドラマでした。

1971年、松坂慶子は最高視聴率30%超えの人気番組「おくさまは18歳」の後半から出演。

主演の岡崎友紀の恋のライバル女学生、松木エミ役でその美貌と色気が注目されました。

「おくさまは18歳」の続編、「なんたって18歳」で松坂慶子は2話からレギュラー出演。

松坂慶子のその後の人気ブレイクは、この頃始まったと言えます。

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